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**  うたをうたおう、わたしを、生かすために
※長文注意:例によって独り言のような文章なので、あんま気にしないでください…。


わたしは、「うたう」のがけっこう好きです。
それ程うまいわけでもないし、歌ってさえいれば幸せとかいうほどでもないけれど
機嫌がいいときはいつも大体歌っています。
時と場合が許すなら大きな声で、それが無理なら小さな声で、
それさえ無理な時には心の中で、頭の中で、いつもメロディが流れていて
それにあわせて身体を動かすことが、とても好きなのです。
動かすといっても「踊る」というわけではなくてですね…
日常動作の中にリズムが生まれる感じ、とでも申しましょうか。

そして思うのですが、たぶん人間は本質的に、歌うのが好きな動物なのではないかと。

昔の人が、つらい農作業のときにみんなで声を合わせて歌を歌ったり、
差別に苦しむブラックピープルが声を合わせてゴスペルを歌い
神様への感謝を表現していたのも、なんだかすごく納得できる。
同じ音楽に身をゆだねることで、不思議と、人と人は繋がることが出来るから。
それは空間を埋める単なる音の配列以上の意味を持っている。
空間を支配する、変化させる、そんな力を持っている。
音楽は理屈ぬきで心を解放して、なんだか違う次元へ連れて行ってくれる感じ。
そして一人で歌うのも、もちろん楽しい。
何もない空間にひとつのリズムや音波が生まれる、その異空間を
自分が意のままに作り出せるという、感覚的な遊びの面白さ。

病気が一番ひどかった頃、声がほとんど出ませんでした。
わたしはその頃、なぜか自分は「高くて細い声」でなければならぬと思い込んでいて
それ以外の声を出す自分は嫌いだったし、嫌われると思い込んでいたのです。
(病気の人間には、よくわからない色々な思い込みがあるのです)
そうやって本来の自分の声をゆがめ、押し込めていたのと同時に
自分の言いたいことも、いつも飲み込んでいました。
どう言えば、周りに関心を持ってもらえるのか。
何を言えば、周りに嫌われなくて済むのか。
いつもそんなことばかり考えていて、びくびくしていて、
自分の素直な考えを口に出すことなんて滅多にありませんでした。
声も、言葉も、全部ニセモノだったのです。



そうすると、どうなるか。
気がつくと、いつものどが塞がったような感じになっていました。
常に緊張で身体を硬くしているからか、息もうまく入ってきません。
のどは詰まっている上に嗄れていて、声をどうにか出そうとしても
とっさにうまく出てきません。
いつも考えてからしか出せないのです。声も、言葉も。
そしてようやく搾り出した声は、いかにもかぼそくて、
ほんの少ししか前方に飛ばずに、あっというまにかき消されてしまうのでした。
小さく、口の中でもごもごと呟いているような自信なさげな喋り方は
いつもうまく相手の耳まで届かなくて、相手をイラつかせることが多く、
或いは 自分の言葉も喋れないやつ として、見下されることもありました。
わかっていても、わたしには声が出せなかったのです。
自分の声を出すということが、自分の言葉を相手に届けるということが
どういうことなのか、まったくわかっていなかったから。

なぜ声が出ないのだろう。
最初は、自分が自分の声を出そうとしていないことなんて、わかっていませんでした。
いつものどが痛くて、でもそれはリンパの腫れから起きているから仕方ないのだ、と
そう思っていたのです。そしてもちろん、そういう面もあったのですが。
けれど少しずつ、病気から回復するに従って、自分で気がつき始めました。

昔はきちんと声を出して、喋れていた。
相手の耳へ、相手の心へ、届けるつもりできちんと声を出していた。
思ったことをほとんどゆがめず、自分の言葉として話していた。
それなのに今、それができないのはどうしてなのか。

そしてその頃、同じように、歌うことも出来ませんでした。
わたしは歌が好きなのでコーラス部に入っていたのですが、
明らかにのどがおかしいのです。
周りのみんなと同じ練習量なのに、わたしだけすぐに声が嗄れてしまう。
「せっかく音程が取れてるけど、ちょっと音量が足りないね」と言われる。
自分でも、声が出ていないのがわかる。
声が身体に響かない。努力で無理矢理のどで発声しているから、
すぐに声が嗄れてしまう、必要以上に疲れてしまう。
でも、昔は歌えていたのに。とても自然に。
うまいとか下手とか関係なく、声が出ていたのに。

そして思ったのでした。ほとんど直感的に。
「声を出せるようになれば、自分の何かが変えられる。
それはたぶん、自分を表現することと繋がっている。
声を出せるような身体になることは、自分の心を変えることにもなるはずだ」と。

そうしてわたしが声を出すために始めたことは…
カラオケに行きまくること!でした。(笑)

大学生になって、暇な時間があれば、大抵カラオケに行きました。
友達と遊びに行けば、ほとんど必ずカラオケに立ち寄ったし
ときには自分ひとりで行くこともありました。
わたしはその辺の羞恥心というものが微妙にないようで、
別に一人カラオケとか全然平気でした。
それに、人がいない方がちゃんと自分と向き合えるのです。
自分の身体と向き合って、声を出す練習が出来るのです。

そして、いろんなことに気がつきました。
例えばリズム。
リズムにのる、ということがわたしにはとても難しかった。
なぜなら、身体と心がうまく繋がっていないから。
リズムにのることは、自分を信頼することなのだと思います。
自分の感じるままに身体を動かし、心で拍子についていくことは
自分の感じていることを信頼する、という前提が絶対に必要なのです。
そこでは正しいかどうかだとか、考えている暇はないのです。
考えている間にリズムから遅れてしまうのですから。
そして心と身体の動きが完全に断絶されていたわたしにとっては、
心で捉えたリズムを、身体にそのまま素直に伝えるということが
とても難しかったのでした。

そしてちょっとずつ、声の出し方を試行錯誤しながら覚えていくのですが
ようやく声が少しは出るようになったかな、と思うようになったのは
もう大学3年の終わりごろ、だったような気がします。
それでも「声の出る日」と「声の出ない日」の差はとても激しくて
周りの友だちはいつも安定して同じように歌えるのに、なぜだろうと不思議でした。

いや、今年の始めのKIJでも、声が出ないことで悩んでいたこともあったし
声を出せるんだな、と思えてきたのは本当にごくごく最近だったのかも。
身体が整ってきたのでしょうか、最近は大体安定していて、日による差はあまりありません。
具合が悪かったりテンションがめちゃ低いとやっぱりかなり小さい声になるけど
まぁそれは仕方のないことだし。

何よりも、「声を出す」ということに対して、構えることがなくなったのでした。
声を出して喋ることも、言葉で表現することも、特別なことではなくて日常的なこと。
それが本当は当たり前なのですよね。
でも、以前のわたしには特別なことだったのです。
自分の声で話すことも、自分の言葉で話すことも、自分を表現することも。

だから今、わたしは初対面の人とでもほとんど普通に声を出せているけれど
以前は慣れ親しんだ友だちにでさえ、声を出すことがとても難しくて
搾り出すようになんとか吐き出していたこと、
そして相手の耳まで届かずにとても辛く思っていたことを考えると
喋れている、ということがまるで奇跡みたいに感じるのです。

今、当たり前に出来ていることが、苦行のように辛かった時期があった。
まるで嘘みたいだけど、確かにそうだったのです。
病気になると、そういう当たり前のようで当たり前でないことをいっぱい発見しますね。
できるのが当たり前、生まれつき出来て当たり前。
そんなことを、間違った使い方をし続けて自分を押し込めることで
いつの間にか忘れてしまう、できなくなってしまう。
そして取り戻そうとして初めて、それがどんなに難しいことだったかがわかる。
まるで途方もない壁をひとつずつ超えるような気持ちでそれを取り戻していくうちに、
いつの間にかそれが「普通」のことになっているのです。
不思議です。

でも、今もやっぱり、声はちょっと小さいです。
大きな声で、自分本来の声で話している人に会うと、尊敬の念を覚えます。
でも今のわたしは、だいぶ「届けよう」として話すことができるようになってきました。
人とコミュニケーションをとろう、という意志が持てるようになってきました。
そういう意志があるのだからと、声の小さい自分に対するコンプレックスも
かなり薄らいで、ほとんど抱かなくなってきました。

そして喋れる自分であること、歌うために声を出せる自分であることに
途方もなく喜びを感じることができるのです。

それでね、人間ってすごいな、と思うのです。つくづく。
わたしは病気によるのどの痛みと、自分の表現を封じるという精神的な理由とで
声がほとんど出せなくなってしまっていたのだけれど、
少しずつ、声を出すべく身体を解放していくことで、
心までも徐々に柔らかくなっていくこと。
そして心を表現に向かってすすめていくことで、
身体がそれに応えて、ふさわしく変化しようと動き出すこと。
そういう人間の心と身体の可能性が、すごいなぁと思う。
わたしたちは常に、あらゆる可能性に開かれているのだなぁと思うのです。

いつも書いているし、思っているし、しつこく諦めずに信じていることなのだけれど
いつでも、どんな場合でも、ここから良くなっていく可能性は
必ず消えずにそこに存在しているのですよね。
可能性を拾い上げるのに必要なのは、諦めずにしつこく信じ続ける心の強さだけ。
強く願っていれば少しずつ現実がついてくるのだということを
わたしは何度も繰り返し経験させてもらってきたのだから
きっとこれからだってそうなるはずだし、誰にとってもそうであるはずなのです。

存在することも、喋ることも、表現することも、
いったん諦めて手放してしまったって、ちゃんとまた取り戻せる。
そのことを、ちゃんといつも覚えておきたいなって思います。
すぐ忘れちゃって、自分にはもう何も出来ないような気分になってしまうことが
まだ時々あるから。


そして念のため書いておきたいのですが、歌は本当にうまくはないのでした…
あんなに練習したし、好きなのになぁ。
でも、表現することそのものが、純粋に楽しければいいのです。
感覚を持って遊ぶこと、もっと日常で増やしたいなぁと思います。
そういうのを忘れたくないし、もう、失いたくないなぁと思うのです。
by macrobi_pirico | 2008-07-13 22:46 | 考えごと
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